●影からの旅人へ  (田中泯・桃花村「影からの客」−ゴヤの『ロス・カプリチョス』
から−をみて)


 夏の名残りの暑さが俄に遠のき、銀鼠の空にこの日のために掲げられた黒旗が、渡る涼
風を孕んでゆったりとはためく、彼岸前のひと日。すべての観客が集まった頃には、樂土
舎の野外舞台の天井はすっかり暗くなって、折しも細かい雨つぶが舞い始めた。

 照明のあかりの帯を通過する雨が、光の粉を散らしたように煌めき出した頃、何ものか
が闇の中から静かに姿を現わす。軽快でさえあるギターの響きとは全く正反対の緩慢な歩
みでやってくる彼は、すでに僕の「常識的」な判断力の及ばない何ものかであって、人で
ありながら、鶏であり、虫でもある。そして、ゆっくり羽ばたきしているのがみえる。彼
が去ると同時に、反対側の闇からは別の何ものかが現れる。ひとしきり舞台の上に自分勝
手な時を費やしたあと、彼もまた暗闇へと消える。そのとき、また違う別の何ものかが明
るみの中へ姿を現わす。その瞬間僕の眼は、去るものを追うべきか、来るべきものを迎え
るべきかの判断を失う。
 そんなふうにして舞台では、僕が注視すべきものを見失っている間に、いつの間にかす
べての何ものかが勢揃いして、それぞれに互いの存在を気にも留めないかのように、同じ
時間を共有しながらも別々の時を過ごしている。中には命を失ったものもいるようだ。だ
がそれさえも確かではなく、僕の視線をはずれていたわずかの間に蘇生して、先ほどの死
はもはやそれ自体がなかったことのように彼はいま振舞っている。二羽の青黒い鶏たちも
、死してなお生かされ、鳥でありながらいまはまた別の踊る何ものかでもあり得る。
 巨大な鉄のシーソーには、ふたりの何ものかがよじ登り、互いに無関心でありながらも
危険な均衡を保つ。向きを変えたシーソーは、ひととき天上への階となりつつも、次の瞬
間には奈落への急傾斜へと変化する。シーソーの振幅が大きくなる。手前のものが高く昇
りつめた時、奥のものは全く見えない。手前が低く落ち込んだ時、奥のものの大きく拡げ
られた手のひらが高く舞い上がって照明に浮かび上がる。
 僕はすべての踊り手を観ようと試みたが、それはできなかった。ひとりを観ている時に
は他の踊り手を見失った。それだけでなく、例えば田中泯を観ようとして、踊る彼を注視
する時、僕の眼の中に在るのは田中泯ではない、ひとりの「何ものか」ではなかったか。
踊っている最中の田中泯は彼自身ではあり得ないのだから。

 僕たちは、大いなるパラドックスの内に生きている。「影からの客」は、僕にとって僕
自身であり、そのことを意識した途端そうではなくなる、注視することも、そこに留まる
こともできない、あやふやで移ろいやすい僕の影そのものではないだろうか。
 舞踏が終わり、人影のなくなった舞台は、まるで打ち捨てられた戦場か廃墟のように、
それだけが確かにいま存在するとでも言いたげにそこに在った。消されていない照明のあ
かりの帯の中には、まだ小さな雨つぶが光の粉となって漂っていた。


2002.9.17   鳥井素行


<影からの客>を観て    掛 川 市      鈴木ともえ
                   創作人形作家   瀬川 明子
                   焼 津 市      小石富美江




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●呼び合える独舞  (「田中泯 独舞」をみて)


 樂土舎の「風乃家」は、十八本の柱と屋根だけで構成され、文字どおり風が吹き抜ける
小屋である。二日目の舞台はここに設置され、穏やかな秋の陽を背中に受けながら客席の
一番後ろに立って、僕は舞台のはじまりを待った。前夜と同じように、彼は静かに、静か
にやってきた。そして、舞台の高みに全身を現わすと、これから進行する舞踏の深みに旅
立ち、埋没する前触れのような羽ばたきを、ゆっくり、繰り返した。

 青黒く艶なく塗られた肌。頸に巻かれた縄。そして、羽ばたき。それらは前夜の舞踏に
彼とともに踊り手として登場していた烏骨鶏を否応もなく思い出させた。だが、果たして
彼は鶏になったのか………。
 風乃家の天井には凹凸のある大地が表現され、そこからは一本の杉の樹が逆しまに直立
している。舞踏が始まった時、僕の頭の中で天地は静かに反転し、僕たち観客はそのまま
の姿勢で洞穴の蝙蝠みたいに宙づりになったようだ。この事態に誰も気づいていないのか
、僕だけがこのことを承知していなかったのか、急に不安になって僕はもう一度、「正常
」を取り戻そうと試みる。舞台のほうでは、彼は杖を持ちながら、まるで盲者が手探りす
るように
中途半端に伸ばした腕をゆっくり不規則に動かしながら、少しずつ手前へと歩み寄る。そ
の姿に見とれているうちに僕の天地はいつか元通りの関係を取り戻した。だが、やはり何
かがまだ違っている。盲者の暗闇。暗闇に閉ざされたのだ。白昼の暗闇に。ここは、大地
の下なのである。そして、天井から降りてきている杉の梢であったものは、ゆくりなくも
地下に伸びる根となった。

 三年前の夏の夜、偶然に出逢った蝉の羽化の光景に促されて、「うつせみ」という小篇
を書いたことがある。そのインスピレーションが、ここで再び訪れるのを僕は感じ始めた
。あの時の僕は、時間をかけて甲冑を脱ぎ、柔らかい乳白の身体を露にした蝉の変態の過
程に、とても無防備な、危険な時の流れを感じていた。僕がもし、蝉を食するものとして
生まれたのであったなら、地上に出たばかりの蝉の命は、やがて訪れる陽の光を体験する
こともなくたちまち終わっていたに違いない。しかし、どうだろう。蝉は地下にいる時は
蝉自身の孤独な理想と現実の間に何ら矛盾はないであろうに、地上に出た瞬間から余命の
宣告を言い渡され、種の保存の使命を告げられ、たとえ危険な羽化の時間を何事もなく過
ごせたとしても、最後まで決してうまくならない飛び方しかできない不器用な成虫として
一生を終える、全く矛盾ばかりの生き物となってしまうのだ。

 舞台のそこかしこを時間の経過を忘れてもがくように移動しながら踊る彼の姿は、僕に
とってこの時地下の蝉に少なからず似ていた。頸に巻いた縄で自らを締め上げようとする
行為は、同じように自らすすんで危険な時の経過に身を曝す蝉の羽化の印象と奇しくも重
なっていた。そして、胸に飾った誇らしい枯れ百合のエムブレムを、大きな手のひらで力
強く握りつぶしながら、堰を切ったように溢れ出た彼の泣き声に、僕は、古い甲冑を脱ぎ
棄てて羽化を終えた蝉の、蝉として矛盾のないただ一つ残された証である「声」を聴いた
のだった。
 彼の舞踏はそのあともゆったりと、なおかつ緊張感を漲らせながら続き、いつしか舞台
の奥の陽の当る場所を歩んでいた。その表情はとても穏やかなように僕には思えた。僕も
やっと地上に戻ることができたようだ。
 やがて彼は再び僕たちの前に帰ってきた。そして、額を地面に押し付ける仕種は、まる
でこの舞踏がまたもや地下に入り込み、「これは永遠に繰り返される」というふうにでも
僕に告げているようであった。
 胸のエムブレムはすでに失われはしたものの、舞踏を終えた彼の身体はとても大きく、
誇らしく思われた。


 それにしても、舞台の途中、彼のあの号泣のあとで、ひとしきりつくつく法師の声が聞
こえていたのを、どなたか憶えておられるだろうか。


2002.9.19   鳥井素行



寄稿文

「影からの客−ゴヤのロス・カプリチョスから−」を観て

桃花村舞踏公演 
 
2002.9.14 楽土舎 野外特設舞台


         脳細胞の奥まで入りこんできて、いつもの日常の中では

刺激されない部分に確かに何かが届いたのだ。

とても気持ちがいい。

いつの間にか私自身も一緒に踊っていたのだ。

身体が一緒に揺れてくる。

雨の中の舞踏、身体にしみてくる雨もなぜか心地よい。

心も身体もたかぶってくる。いとおしき人間よ!

おぞましきこの姿にて

泥にまみれ、神に問う―。

ぬめぬめと、どろどろところがりながら

ひきずりながら汚物の排泄されていくその瞬間、

キラリと光る美しい絵を目の前に見るのだ。

      

 2002.9.25
 
掛川市   鈴木ともえ


 「影からの客」桃花村 舞踏公演をみて
    

ここ袋井という地元で田中泯の世界に触れるチャンスがあるのは、私としても
毎年の楽しみとなっている。

初めて、田中泯の公演を見たのは1998年山梨の白州の夜の公演「グリムの世界」
だった。新鮮な驚きと感動があった。

この年、山梨・白州の公演に友人5人と車でめざしたのも本当に偶然な出会いの
連続があった。まづ、私の神戸での作品展のきっかけとなった女性舞踏家との出
会い,又そのギャラリーに偶然訪れた写真家の稲田貞史氏との出会い、彼の写し
た美しい写真集<舞踏の世界>をたづさえて、それが縁で出会った田中泯舞踏集
団のメンバーのザックのワイフかおりさんとの出会い。その彼女の情報から白州
での公演を知る事となった。

以来、折をみて世田谷パブリックシアターでの公演と足を伸ばさないと触れるこ
とのできない田中泯の世界を、なんとここ袋井では今年で
3回目。影ながらのファ
ンとしてはうれしい限りだ。
舞台とそこで静かで、又激しい動き・・・闇とわずかな光・・・・・・・・。
田中泯の創るこの空間の一瞬一瞬が・・・いつも「美しい」と感動させられる。
演ずることない激しい、時に静かな身体表現のエネルギーが私の眠っている感覚
を刺激して呼び覚まされる。
今年は15日の田中泯の独舞を訳あって見逃したのは本当に残念だったが、14日の
「影からの客」よかった
!!
特に、昨年来のデイナはさらにみがきがかかり、身体表現とバランス感覚は特に
ひかっていた。私はすっかり彼女のファンになってしまった。

すでに来年の出し物は?? 期待で、待ちどうしい・・・。

              2002928日 創作人形作家  瀬川 明子